医療機関の経営者は、診療業務と並行してスタッフの労務管理を行わなければなりません。「就業規則は開院時にとりあえず作ったきり」「うちは人数が少ないからまだ必要ないだろう」と考えている方も多いのですが、病院やクリニックは24時間体制の勤務や多職種が混在する、一般企業よりもはるかに複雑な労務環境にあります。本記事では、医療機関特有の事情を踏まえ、安定した経営を実現するために就業規則で整理すべきポイントを弁護士が解説します。
第1章 病院・クリニックの就業規則は何のために作るのか
1-1 なぜ医療機関に独自の就業規則が必要なのか
医療現場は、交代制のシフト勤務や宿直業務、突発的な急患対応など、一般的企業とは異なる複雑な労働実態を有しています。こうした特殊な環境において、残業代の計算根拠や各種手当の支給条件を個別の口頭合意に頼っていると、解釈の相違から労務紛争に発展するリスクが高まります。
また、医療機関は医師や看護師、事務職など多職種が協働する場であり、それぞれの職務権限や責任範囲を明確にした規律は不可欠といえます。医療機関の実態に即した独自の就業規則を整備することは、単なる形式的な義務ではなく、労働条件を客観的な文書として定義することで組織の透明性を高め、スタッフが安心して診療に専念できる環境を作るための経営基盤となります。
1-2 10人未満でも就業規則を作成した方がよい理由
労働基準法では、常時10人以上の労働者を使用する事業場に就業規則の作成と届出を義務付けています。そのため、スタッフが数名の個人クリニックなどでは「義務がないから作らなくていい」と判断されることがありますが、たとえ10人未満であっても早期に作成しておくことが望ましいといえます。
なぜなら就業規則は、スタッフへの公平なルール提示になるからです。小規模な組織ほど、経営者(院長先生)とスタッフの距離が近く、属人的な判断で物事が決まりやすい傾向があります。しかし、スタッフが増えたり、ベテランと新人の間で不公平感が生じたりすると、不満が爆発し、離職や労働紛争に発展しやすくなります。
また、助成金を申請する際は、ほとんどの助成金において、就業規則の整備が必須であり、万が一、スタッフとの間で法的トラブルが発生した際に、就業規則はクリニックを守る防御となります。ルールが明文化されていない状態でスタッフを注意・指導することは困難であり、場合によっては「院長の気分で決めている」と見なされ、法的に不利な立場に置かれることもあります。
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第2章 最初に整理したい、労働時間・シフト・当直の注意点
2-1 変形労働時間制・シフト制を就業規則に落とす際の注意
クリニックや病院において、1日8時間・週40時間の原則的な労働時間枠だけで運用することは現実的ではありません。そこで有効な手段として導入されているのが、1ヶ月単位の「変形労働時間制」です。これは、一定期間(例えば1ヶ月)を平均して週40時間内に収まっていれば、特定の日や週に法定労働時間(1日8時間/週40時間)を超えて勤務させても、時間外労働として扱わなくてよいという制度です。
ただし、この制度を有効に機能させるためには、就業規則への記載が必須となります。具体的には、変形期間(通常は1ヶ月)、その期間の起算日、各日の労働時間などを明示しなければなりません。
運用の具体的なルールも就業規則に記載
実務で起こりがちな失敗は、就業規則に「変形労働時間制を採用する」とだけ記載があり、具体的なシフトの組み方や周知方法が詳細に決められていないケースです。
この場合、勤務割表(シフト表)をいつまでに作成し、どのようにスタッフへ通知するのかというプロセスも就業規則に定めておく方がトラブルを回避できます。例えば、「前月の25日までに翌月のシフトを確定させる」といった具体的なルールを設けることで、急な変更による不満やトラブルを防ぐことができます。
2-2 宿直・日直・オンコールを曖昧にすると何が起きるか
医療機関の労務管理においてトラブルになりやすく、慎重な設計が求められるのが、当直(宿直・日直)とオンコール(緊急呼出し対応待機)の扱いです。これらの運用を曖昧にしたまま放置すると、将来的に未払い残業代請求を受けるリスクがあります。
労働基準監督署の「許可」と宿日直の定義
まず正しく理解すべきは、労働基準法上の「宿日直」として認められるためには、労働基準監督署長の許可が必要であるという点です。許可を得た宿日直は、通常の労働時間規制の枠外として扱われ、原則として一定の宿日直手当の支払いで済みます。しかし、この許可を得るためには「ほとんど労働の必要がない平穏な状態」であることが条件であり、通常の診療業務や救急対応が頻繁に発生するような環境では、許可が下りないか、あるいは許可が取り消される可能性があります。
未払い残業代請求へ発展するリスク
もし許可がない状態で、宿直手当だけを支払い、実際には通常業務に近い対応を行わせていた場合、その時間はすべて「労働時間」とみなされます。その結果、深夜割増賃金や時間外手当が未払いとなっていると判断されるのです。
オンコール待機時間の労働時間性
オンコールとは、スタッフが自宅などで待機し、呼び出しがあれば出勤するという勤務形態ですが、これが「労働時間」に該当するかどうかは、スタッフがどれほど自由に過ごせるか(使用者の指揮命令下に置かれているか)によって判断されます。例えば、場所の指定が厳格であったり、数分以内の対応が義務付けられていたりと、自由が著しく制限されている場合は労働時間と判断されるリスクが高まります。
就業規則で定めるべき具体的なルール
就業規則では、宿直・日直やオンコール対応について、どのような条件であれば労働時間に該当しないと整理するのかを具体的に定めておく必要があります。
例えばオンコール待機については、待機場所の指定の有無や対応までの猶予時間、待機中の私的行動の自由度などを踏まえ、通常は労働時間に該当しないと評価できる運用条件を明確にしておくことが重要です。
あわせて、待機時間そのものは労働時間に該当しない場合でも、オンコール手当等を支給すること、そして実際に呼び出されて業務に従事した場合には、その時点から労働時間として取り扱い、割増賃金を支払うことなどを明記しておくと、後日のトラブルを防ぎやすくなります。
また、宿直・日直については、労働基準監督署の許可を得た業務に限り、原則として通常の労働時間規制の枠外として取り扱うこと、その範囲を超える業務が発生した場合には労働時間として扱うことを整理しておくことが望ましいでしょう。
第3章 職種・雇用形態の違いを就業規則でどう整理するか
3-1 医師・看護師・事務職を同一規則で扱うリスク
中規模以上の病院だけでなく、小規模なクリニックであっても、全職員を一律の就業規則とすることにはリスクが伴います。医療現場には、その職責や働き方が根本的に異なる複数の職種が存在するからです。
例えば医師の場合、自己研鑽や学会発表、当直の頻度など、他のスタッフとは明らかに異なる動きが求められます。一方で、事務職は固定時間勤務が中心である場合が多いでしょう。これらを一つの規則で無理にまとめようとすると、特定の職種には適用しにくい規定が出てきたり、逆に特定の職種の優遇が他の職種の不満を招いたりすることがあります。
特に注意が必要なのは、近年注目されている「医師の働き方改革」への対応です。時間外労働の上限規制が医師にも適用されるようになり、就業規則における管理体制の整備が急がれます。職種ごとに職種別規定を設ける、あるいは必要に応じて医師向けの別個の規則(医師就業規則)を作成するなどの方法をとることで、それぞれの専門性や業務実態に即した柔軟な管理が可能になります。
3-2 非常勤・パートを含めた処遇設計の考え方
医療機関の運営は、多くのパートタイム労働者や非常勤医師によって支えられています。ここで重要になるのが「同一労働同一賃金」への配慮です。正職員と非正規雇用(パート・有期契約等)の間で、不合理な待遇差を設けることは法律で禁じられています。
就業規則を作成する際は、正職員用のものと分けて「パートタイマー就業規則」を作成するか、あるいは正職員用規則の中で適用範囲を明確に区分しなければなりません。よくある間違いは、正職員用の就業規則に「全職員に適用する」と書いてしまい、意図せずパート職員にも正職員と同じ条件での退職金や賞与の権利を与えてしまうケースです。
また、非常勤スタッフの処遇を設計する際は、昇給の有無、賞与の支給基準、退職金の有無、休暇の付与方法などを、職務内容や責任の範囲に応じて論理的に説明できるようにしておく必要があります。単に「パートだから賞与なし」とするのではなく、正職員とはどのような役割の違いがあるのかを職務記述書(ジョブディスクリプション)などで補完し、それを就業規則の根拠としておくことが、法的リスクを低減しつつ、スタッフの納得感を得ることにつながります。
第4章 給与・残業代トラブルを回避!病院・クリニックの賃金規定の整備
4-1 残業代・手当・研修時間で揉めやすいポイント
医療現場での賃金トラブルにおいて頻発するのが「何が労働時間にあたるのか」という認識のズレです。特に以下の3点は、就業規則で明確に定義しておく必要があるといえます。
1. 着替えや申し送りの時間
制服への着替えが義務付けられている場合や、勤務開始前の申し送りが必須となっている場合、その時間は労働時間に含まれます。
2. 研修・学会参加
院長が指示して参加させる研修や勉強会は労働時間です。一方で、スタッフが任意で参加するものは労働時間外となりますが、その区別を曖昧にしていると「強制だった」と主張される可能性があります。
3. 固定残業代(みなし残業)
基本給に固定残業代を組み込む形で導入している場合、基本給のどの部分が何時間分の残業代に相当するのか、超過分は別途支払うことを明記しなければ、制度自体が無効とされ、結果として残業代の全額支払いを求められるおそれがあります。
これらを曖昧な慣習のまま運用するのではなく、賃金規定において算定根拠を1分単位で、あるいは端数処理のルールまで含めて記載することが重要といえます。
4-2 服務規律・SNS・守秘義務をどこまで書くべきか
医療機関にとって、患者のプライバシー保護と信頼の維持は重要であり、就業規則の服務規律において厳格かつ具体的に定めることが望ましいといえます。
特に現代においては、SNSの利用に関する規定も不可欠といえます。スタッフが院内の様子や患者を特定できるような情報をSNSに投稿することは、重大な守秘義務違反であり、病院やクリニックの社会的信用を失墜させる行為です。また、インターネット上の口コミに対する不適切な反応が炎上を招くこともあります。就業規則には、情報の取り扱いルール、投稿の禁止事項、そして違反した場合の責任の所在を明確に記載し、入職時には誓約書を提出させるなどの仕組みを整えましょう。
4-3 懲戒・休職は、使わなくても整備しておく
「うちのスタッフはみんないい人だから、懲戒や解雇なんて考えられない」とおっしゃる先生方も多いでしょう。しかし、就業規則におけるこれらの規定は、いざという時にクリニックを守るため、必ず設けておくようにしてください。
日本の労働法では、就業規則に懲戒の種類・事由が定められていない限り、原則として従業員に対して懲戒処分を下すことはできません。例えば、経歴詐称や無断欠勤、重大な医療ミス隠蔽など、組織として看過できない事態が起きたとしても、就業規則に該当する項目がなければ、適切な処分ができない可能性があるのです。
また、休職規定も重要です。メンタルヘルスの不調などで長期欠勤が必要になった際、いつまで休めるのか、復職の判断は誰がどのように行うのか、休職期間が満了しても復職できない場合はどうなるのか、といったルールが定まっていなければ、際限なく休職が続き、しかもその間、給与や社会保険料を負担しなければならないリスクがあります。
第5章 クリニック・病院の就業規則は「作って終わり」にしない
5-1 雛形がそのまま放置されるクリニックの共通点
多くのクリニックに見られるのが、就業規則に最新の法改正が反映されていないという状況です。
例えば、育児・介護休業法の改正、労働施策総合推進法によるパワハラ防止の義務化など、ここ数年だけでも労働法制は多様に変化しています。見直しをせず使い続けていると、法律違反の状態が常態化し、スタッフから不信感を持たれる原因になりかねません。また、クリニックの成長に伴ってスタッフ数が増え、運営実態が変化しているにもかかわらず、小規模だった頃のルールのまま運用することも現場の混乱を招く一因となります。
5-2 法改正・人員増減時に見直すべきタイミング
就業規則を見直すべき主要なタイミングは大きく以下の3つがあげられます。
1. 重要な法改正が行われるとき
見直しを避けて通れないタイミングといえます。
2. スタッフの数や雇用形態が変わったとき
例えば「10人の壁」を越えるときや、新たに非常勤医師を採用し始めたときなどは、既存のルールが適合するか確認が必要です。
3. 院内のルールを変更したいとき
新しい手当を導入したり、診療時間を変更したりする場合、就業規則の変更手続き(不利益変更にならないか等の検討)をセットで行う必要があります。
少なくとも1年に一度は、現在の実態と就業規則にズレがないか、定期的なセルフチェックを行うことが、健全な経営維持につながります。
第6章 就業規則を整備するための4ステップ
実際に就業規則を整備するには、何から始めればよいか、悩まれる方も多いかと思います。この章では、具体的な整備の進め方を4段階に分けて解説します。
6-1 【ステップ1】現状の勤務実態と雇用形態の棚卸し
まずは、現在クリニックでどのような働き方が行われているのか、事実関係を把握することから始めます。就業規則と実態が乖離する原因は、この現状把握が不十分なまま雛形を当てはめてしまうことにあります。例えば、以下のような項目をリストアップしてみましょう。
働き方の実態把握項目の例
- スタッフ全員の雇用契約書と、実際の勤務シフトの突き合わせ
- 職種(医師・看護師・事務・その他コメディカル)ごとの始業・終業時刻の差
- 早出や残業、申し送りの時間が日常的にどの程度発生しているか
- 宿直やオンコールの頻度と、その間の具体的な業務内容
- パート・アルバイトスタッフの有給休暇付与状況や賞与の有無
6-2 【ステップ2】職種別の役割定義と賃金体系の設計
現状を把握したら、次に理想的なルールを形にしていきます。医療機関においては、一律の規定ではなく職種ごとの特性を反映させることがポイントです。
賃金体系については、基本給をいくらに設定し、どのような手当(資格手当、役職手当、精勤手当など)を設けるかを検討します。特に固定残業代制を採用する場合は、その金額が何時間分に相当するのか、基本給と明確に区分できているかを厳格に設計しなければなりません。また、この段階で「休職期間をいつまで認めるか」「SNS利用における禁止事項は何か」といった、クリニックの運営方針(ガバナンス)に関わる項目も詳細に詰めていきます。
6-3 【ステップ3】スタッフへの説明と周知(意見書への対応)
就業規則は経営者が一方的に決めて押し付けるものではありません。法的には、就業規則の作成・変更にあたって労働者の代表から意見を聴くことが義務付けられています。
スタッフへの周知を丁寧に行うことは、単なる義務の履行ではなく、信頼関係の構築につながります。
- なぜこのルールが必要なのか(ルールの整備はスタッフを守るためでもあることを理解してもらう)
- 今回の変更によって何が変わるのか
- 不明点や不安な点はないか
こうした点を全体ミーティングや書面を通じて丁寧に説明し、スタッフの納得感を得ましょう。不利益変更を伴う場合には、特に慎重な合意形成のプロセスが必要となります。
6-4 【ステップ4】労働基準監督署への届出と定期的なアップデート
内容が固まり、スタッフ代表の意見書を添えたら、就業規則を所轄の労働基準監督署へ届け出ます。10人未満のクリニックで届出義務がない場合でも、受理印をもらった控えを保管しておきましょう。(助成金の申請などを行う場合は、受理印のある控えが必要な場合があります。)
また、届出をして終わりではなく、年に一回は最新の法改正と自院の実態を照らし合わせ、内容を更新し続けることが重要です。現状に即したルールへアップデートすることで、形骸化を防ぎ、健全な労務環境を維持することができます。
第7章 自院に合った就業規則を整備するために
本記事では、クリニックや病院が就業規則を作成・見直す際に押さえるべき実務上のポイントを解説してきました。改めて要点を振り返ってみましょう。
- 医療現場特有の「不規則な勤務」や「多職種混在」の実態を反映させる。
- 宿日直やオンコールといった、労働時間性が争われやすいポイントを曖昧にしない。
- 正職員とパート職員の処遇差に論理的な根拠を持たせる。
- 服務規律や休職規定など、万が一の事態に備えた防衛策を整える。
就業規則を作成する目的は、それを運用することでスタッフが安心して働ける環境を作り、結果として質の高い医療を提供し続けることにあります。しかし、医療法務や労務管理は専門性が高く、日々変わる法改正に院内だけで対応するのは簡単ではありません。自院の規則が現在の法律に適合しているか、あるいは現場の実態と乖離していないか不安を感じる場合は、私たちのような外部の知見を賢く活用することも、経営者としての重要な判断の一つといえます。