クリニックを経営する中で、頭を悩ませるのが退職金制度の扱いではないでしょうか。「近隣のクリニックは出しているのか」「退職金なしでも採用できるのか」などの疑問に加え、実務の面では、ひとたび退職金制度を導入すると不利益変更が難しいという法的なリスクも存在します。本記事では、クリニックにおける退職金制度を導入しない場合の注意点、導入する場合の具体的な設計手法などについて、専門家の視点から解説します。求心力の向上と経営の安定を両立させるための判断材料としてお役立てください。
第1章 クリニックにおける退職金制度と「退職金なし」の法的妥当性
1-1 クリニックに退職金を支払う義務はあるのか?
結論からいうと、現在の日本の法律において、雇用主に退職金の支払いを義務付ける規定はありません。退職金はあくまで各クリニックが任意で設ける制度であり、就業規則や契約書に「退職金を支払う」という定めがない限り、スタッフの退職時に法的な支払い義務が生じることはありません。まずは大原則として、「退職金は法律上の義務ではない」という点を押さえておくことが大切です。
1-2 「退職金なし」とする場合に必ず守るべき就業規則のルール
制度の有無を法的に明確にするには、就業規則への記載が不可欠です。労働基準法では、退職金制度を設ける場合はその内容を必ず就業規則に記載しなければならないと定められています。
退職金なしとする場合は、規定自体を設けないという選択もできますが、誤解や紛争を防止する観点からは退職金は支給しない旨を明記しておくことが望ましいといえます。
インターネット上などで提供されているひな形をそのまま使い、退職金を支給するという条文が残っていると、意図せず支払い義務が生じる可能性があるため注意が必要です。
1-3 求人票や労働条件通知書との整合性をチェックする
採用時の説明も重要です。求人票に「退職金あり」と記載したり、面接で口約束をしたりすると、それが労働契約の内容となり、支払い義務が生じる可能性があります。
特に注意すべきは、採用時にスタッフへ交付する「労働条件通知書」です。退職金制度がある場合は、労働基準法第15条で明示することが必要ですが、退職金制度がないにもかかわらず「退職金あり」としてしまうと、労働条件になっていると判断されるリスクが高まります。
後の深刻な信頼失墜や損害賠償請求を招くリスクを避けるためにも、通知書の内容と実際の制度、現場での説明に乖離がないかも含めてチェックしておくことが重要です。
1-4 慣行による支払い義務「労使間の慣行」への注意点
規定がなくても、退職者に対し長期間にわたり、一定の基準で支給が継続され、スタッフ側に「退職時には退職金が支給されるもの」という合理的期待が形成されている場合には、労使慣行として法的権利が認められる可能性があります。
たとえば、これまで退職した人に毎回退職金を支給していたような場合は、規定がないことを理由に特定のスタッフだけに退職金を支払わないという判断が通用しないおそれがあります。そうした可能性を踏まえ、原則として退職金を支給しない方針を貫くのであれば、一部のスタッフへの功労金支給についても慎重な対応が必要といえます。
第2章 退職金制度を「導入しない」(退職金なし)場合のメリットとリスク
2-1 経営者側のメリット:固定費の抑制と資金繰りの安定化
退職金制度を導入しないメリットは、経営の機動力と安定性を確保できる点といえます。退職金は将来的に発生する債務ですが、その原資をあらかじめ積み立てておくには、毎月のキャッシュフローに余裕を持たせなければなりません。
制度を持たないことで、固定費としての積立負担をゼロにし、その分を最新の医療機器の導入や、院内のリフォーム、あるいは日々のスタッフの給与(月給)として柔軟に還元することができます。
特に開業して間もない時期や、患者数が不安定な段階においては、将来の大きな支払い約束(退職金)を背負わないことが、クリニックの存続を守るための賢明な判断となることもあります。
2-2 採用・定着におけるデメリット:他院との比較と離職リスク
一方で、デメリットとして顕著に現れやすいのが「採用力の低下」です。特にベテラン層や、一つの職場で長く腰を据えて働きたいと考えるスタッフほど、福利厚生としての退職金の有無を重視します。
例えば、基本給が同等であれば、退職金制度があるクリニックの方が「トータルの生涯賃金」は高くなります。スタッフがライフプランを立てる際、「このクリニックで働き続けて、将来まとまったお金がもらえるか」という点は、他院への引き抜きや転職を検討する動機になりやすいポイントの一つともいえます。
特に近隣に大規模病院や、退職金を完備した競合クリニックがある場合、「退職金なし」という条件は、求職者、また現役スタッフから見てもマイナスポイントに映りかねないというリスクを認識しておく必要があります。
2-3 「退職金がない」というスタッフの不満が法的紛争に発展するリスク
退職金なしという条件自体は違法ではありませんが、これがトラブルに発展するのは説明不足や認識の不一致があった場合です。
例えば、長年貢献したスタッフが退職する際、自分には退職金が出ると思い込んでいた場合、退職間際になって実は出ないと知ることで、感情的な対立が生まれる可能性があります。
こうした感情がきっかけとなり、「残業代の未払いはないか」「有給休暇は適切に消化できていたか」といった別の労務問題へと波及し、労働基準監督署への通報や弁護士を通じた請求に発展するケースは少なくありません。
退職金がないことへの不満が、クリニックの労務体制全体に対する不満に変わってしまうリスクにも注意が必要といえます。
2-4 「退職金なし」を補うための代替策
退職金なしを維持しつつ、優秀なスタッフを繋ぎ止めたいのであれば、それに代わる目に見えるメリットを提示する方法があります。
シンプルなものとしては、退職金として積み立てる予定の金額を、月々の基本給や賞与に上乗せして支払う前払い方式のような考え方です。「退職金がない代わりに、月々の給与を近隣相場より1〜2万円高く設定しています」と明言し、スタッフに「今、手元に入るお金が多い」というメリットを感じてもらう方法です。
また、住宅手当や研修費補助、柔軟な勤務制度など、日々の生活に直結する福利厚生を充実させることも有効です。「退職金制度はなくても、ここで働き続ける価値がある」とスタッフが納得できる環境を整えることが、結果として長期勤続へとつながります。
第3章 退職金制度を「導入する」場合のメリットと経営上の意義
3-1 優秀な医療スタッフの確保と長期勤続のインセンティブ
退職金制度を導入する経営的意義の一つは、スタッフに対する「長期雇用の約束」です。一定期間勤続しなければ支給されない、あるいは勤続年数が長くなるほど支給額が急増するような設計(累進型)にすることで、スタッフに対して「長く働くほど得をする」という心理的インセンティブを与えることができます。
特に育成に時間がかかる歯科衛生士やリハビリ職、専門性の高い看護師などが長期的に在籍してくれることは、クリニックの医療の質を安定させ、経営者の負担を軽減することにもつながります。
3-2 節税効果:法人税対策としての退職金積立(医療法人の場合)
医療法人化しているクリニックの場合、退職金制度は節税スキームにもなり得ます。特定の共済制度や生命保険などを活用して退職金を積み立てる場合、その掛金を「法人の経費(損金)」として計上できるケースが多いからです。
ただ利益を出して税金を払うのではなく、将来の退職金として積み立てることで、法人の所得を圧縮しつつ、スタッフや経営者自身の退職原資を効率的に形成するわけです。内部留保を現金で持っているだけでは得られない、法人ならではの財務的メリットといえます。
3-3 スタッフにとっての税制メリット
退職金がスタッフに喜ばれる理由の一つに、税金面での優遇があります。退職金は、月々の給与や賞与とは異なる退職所得として扱われます。
退職所得には、退職所得控除という大きな非課税枠が設けられており、さらに控除後の金額を原則として2分の1にして課税されるため、通常の所得税・住民税に比べて税負担が大幅に軽くなります。
スタッフからすると、月々2万円の昇給を受けるよりも、将来的に同額分を退職金として受け取る方が、最終的に手元に残る金額(税金を差し引いた手取り額)が多くなります。この税制上の合理性をスタッフに説明することで、制度の価値をより高く認識してもらうこともできるでしょう。
3-4 クリニックのブランディング
退職金制度が整備されている事実は、外部に対して「経営が安定しており、スタッフを大切にしている組織である」というメッセージにもなり得ます。たとえば、銀行などの金融機関からの与信評価が高まれば、将来の設備投資に向けた融資がスムーズになりますし、制度導入による保障面の充実によって良い人材を獲得できればクリニックのサービスの質も向上し、地域住民からの信頼醸成にもポジティブな影響を期待できるはずです。
第4章 知っておきたい退職金制度の種類とクリニック向けの選び方
4-1 中小企業退職金共済(中退共):制度の仕組みと確実な準備
クリニックで一般的によく導入されているのが、国がサポートする「中小企業退職金共済(中退共)」です。事業主が毎月一定の掛金を納め、スタッフが退職した際には中退共から直接、スタッフの口座に退職金が支払われる仕組みです。
メリットは、掛金の全額が経費(個人事業主は必要経費、法人は損金)として認められる点と、新規加入時には国から掛金の一部助成が受けられる点です。また、外部積立型であるため、クリニックが倒産するような万が一の事態でもスタッフの退職金は守られます。
ただし、一度加入すると会社都合による減額が難しいなどの制約もあるため、無理のない掛金設定を検討することが大切です。
4-2 特定退職金共済(特退共):自治体や商工会議所制度の活用
特定退職金共済(特退共)は、地域の商工会議所などが運営している退職金制度です。仕組みは中退共と似ていますが、地域に密着した団体が運営しているため、手続きが比較的スムーズであることや、地域独自の福利厚生サービスが受けられるといった付加価値がある場合があります。
地域のつながりを重視する経営者にとっては、有力な選択肢の一つとなります。
4-3 企業型確定拠出年金(企業型DC):これからの時代の選択肢
近年、急速に導入が進んでいるのが「企業型確定拠出年金(企業型DC)」です。これは、クリニックが掛金を出し、スタッフ自身が運用先を選んで将来の年金(または退職金)を作る制度です。
「運用のリスクをスタッフが負う」という側面はありますが、掛金が全額非課税になるほか、社会保険料の算定対象外となるメリット(選択制DCの場合)があり、経営側・スタッフ側の双方にコスト削減効果が期待できます。
投資教育が必要になるなど運用の手間はありますが、スタッフのマネーリテラシー向上にも役立つため、先進的なクリニックでの導入が増えています。
4-4 独自積立(生命保険・内部留保):メリットとキャッシュフロー上の注意点
外部の共済制度を使わず、クリニック独自のルールで積み立てる方法もあります。代表的なのが、法人向けの生命保険を活用する方法です。解約返戻金を退職金原資に充てるもので、保障を得ながら積立ができるのが特徴です。
ただし、この方法は「解約のタイミング」と「スタッフの退職タイミング」を合わせる必要があり、キャッシュフローの管理が複雑になります。また、単なる内部留保(預貯金)での準備は、支払時に一気に多額の現金が出ていくため、経営を圧迫するリスクもあります。そのため、独自の積立を行う場合は、税理士などの専門家と連携した資金シミュレーションを行うことをおすすめします。
第5章 退職金規定を設計・運用する際の実務ポイント
5-1 支給対象者の範囲を明確にする(勤続年数・正社員・パートの区分)
退職金制度を作成する際は、「誰に払うか」をまず検討します。
一般的には「勤続3年以上」などの一定期間を条件とすることが多いですが、これを明確に規定しておかないと、数ヶ月で辞めたスタッフからも退職金を請求されかねません。
また、パートタイムスタッフへの適用についても注意が必要です。同一労働同一賃金の観点から、正社員とパートの間で不合理な格差をつけることは禁じられています。「パートだから一律ゼロ」とする場合には、職務内容・責任・人材活用の仕組みなどに照らして、不合理な待遇差と評価されないかを慎重に検討する必要があります。
トラブルを避けるためには、「週〇時間以上の勤務者を対象とする」など、具体的かつ合理的な基準を設けることが重要です。
5-2 計算式の策定:どのような貢献に報いたいか
退職金の計算方法は、自前で支払う「独自積立」だけでなく、中退共や企業型DCなどの「外部積立」を利用する場合でも、毎月の拠出額(掛金)を決める公平な基準として必要になります。
主な計算方法として、以下の3つがあげられます。
定額制度
「固定金額×勤続年数」で計算する方法です。計算がシンプルで、スタッフにとっても分かりやすい点がメリットです。一方で、役職や個人の貢献度が考慮されないため、物足りなさを感じさせてしまう可能性があります。
基本給連動型
「退職時の基本給×勤続年数」に、自己都合など退職事由を組み合わせて計算する方法です。昇給すれば支給額も上がりますが、勤続年数に連動するため貢献度よりも「長く在籍すること」が有利にはたらく傾向があります。
ポイント制
勤続年数、役職、資格、毎年の人事評価などをポイント化し、その累積にポイント単価を乗じて計算する方法です。たとえば、単価を1万円に設定し、勤続年数ポイント、役職ポイントなどを加算していきます。日々の貢献度を反映しやすいためモチベーション向上につながりやすく、社会情勢に合わせて単価を調整することで柔軟な運用ができる点もメリットといえます。
5-3 自己都合退職と会社都合退職での支給率設定の考え方
多くのクリニックでは、自己都合での退職と、クリニック側の都合(解散など)による退職で、支給額に差をつけています。自己都合の場合は、自己都合係数を乗じて、満額の6割〜8割程度に設定するのが一般的です。
これは、急な離職によるクリニック側の損害や、長期勤続への期待に反したことへの調整という意味合いがあります。この係数の設定も、あらかじめ就業規則に明記しておかなければ用いることができません。スタッフが納得感を持てるよう、世間相場を考慮したバランスの良い設定が求められます。
5-4 懲戒解雇時の「退職金不支給・減額」条項を有効にするための条件
「規律違反をして解雇されたスタッフにも、退職金を払わなければならないのか?」という問いに対する答えは、「規定があれば不支給にできる可能性がある」です。ただし、日本の裁判例では、全額不支給が認められるのは、それまでの功労を失わせるほどの重大な背信行為がある場合など極めて限定的であるという側面もあります。
就業規則には、単に「懲戒解雇ならゼロ」と書くだけでなく、どのような行為が対象となるのかを具体的に記載し、実際に不支給とする際も、慎重な判断が必要となります。いざという時にクリニックの利益を守るためにも、この条項の作成は弁護士などの専門家に相談することをおすすめします。
第6章 【注意】一度決めた退職金制度を変更・廃止する際のリスク
6-1 「不利益変更」とみなされる基準と同意取得の重要性
退職金制度の導入を慎重に検討すべき理由の一つは「一度決めると簡単には変えられない」という点です。経営が悪化したからといって、経営者の独断で退職金を減額したり廃止したりすることは、労働契約法上の「不利益変更」にあたります。
不利益変更とは、現在適用されている労働条件を、従業員にとって不利な方向に変更することで、この不利益変更が認められる為には、
①スタッフ全員から自由な意思に基づく真の同意を得ること
②就業規則の変更により行う場合は、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情に照らして合理的なものであること
のいずれかを満たす必要があります。
この「同意」のハードルは高く、単に説明会で了承のサインをもらっただけでは、後に裁判で「強制された」と覆されるリスクをはらんでいます。
6-2 事業承継やM&Aを見据えた退職金債務の適切な管理
将来、クリニックを第三者に譲渡(M&A)したり、親族等へ事業承継したりすることを検討している場合、退職金制度の運用実態は、譲渡価格や経営の健全性というクリニックの評価そのものに影響を及ぼす可能性があります。
特に外部積立をしていない「内部留保型」の場合、帳簿に現れにくい含み負債として、将来的に支払うべき数千万円単位の退職金債務を抱えていることになります。これが足かせとなり、算定される譲渡価格が想像以上に低くなったり、リスクを嫌って承継者が現れなかったりするケースも少なくありません。
将来的な出口戦略を見据えるのであれば、早い段階で中退共などの外部積立に移行し、退職金債務をクリニックの財務から切り離して整理しておくことが、円滑な承継に向けた有効な備えになるといえます。
第7章 まとめ:クリニックに最適な退職金戦略を立てるために
本記事では、クリニックにおける退職金制度導入のメリット・デメリットから、具体的な制度設計のポイント、導入した後のリスクまでを網羅的に解説してきました。
要点は以下のようになります。
- 法律上、退職金の支払義務はないが、就業規則に記載がある場合は支払い義務が生じる
- 「退職金なし」は経営の柔軟性を生むが、採用や定着の面で不利になるリスクがある
- 節税メリットやスタッフの税負担を軽減できる制度もある
- 一度導入すると、後からの変更や廃止は容易ではない
- 将来の事業承継やM&Aを考慮し、退職金債務は外部積立で「見える化」しておくのが理想といえる
まずは現在の就業規則について、退職金に関する規定が現状と乖離していないかを確認してみましょう。また、求人を出しても反応が薄い場合は、他院の退職金条件をリサーチし、自院の強みをどう再定義するか検討する時期にきているのかもしれません。
退職金制度の導入や見直しは、経営判断に必要な分野が労務・法務・税務と多岐にわたります。安易にひな形などを転用してしまうと、将来的に予期せぬ法的紛争や、解消しがたい経営上のリスクを抱え込むことになりかねません。
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