クリニックを安定的に経営するうえで、人件費の管理は極めて重要なテーマです。
医療の質を左右するのは“人”でありながら、給与や賞与、社会保険料、福利厚生費など人件費に関わるコストは年々増加傾向にあります。
一方で、「他院と比べて人件費が高いのか安いのか」「給与を上げると経営が苦しくなるのでは」「求人しても人が定着しない」といった悩みを抱える院長先生も少なくありません。
本記事では、クリニックの人件費率の相場や考え方を解説したうえで、人材定着と経営効率を両立させるための実務的ポイントを、労務・法務の専門家の視点から分かりやすく解説します。
1. クリニック経営における「人件費率」とは?
1-1. 人件費率とは何か(定義と構成項目)
「人件費率」とは、売上に対して人件費がどの程度の割合を占めているかを示す指標であり、
クリニックの経営健全性や運営効率を可視化する重要な財務指標のひとつです。
ここでいう「人件費」には、主に以下のような費用項目が含まれます。
- 基本給・賞与
- 社会保険料(事業主負担分)
- 通勤手当・住宅手当等の諸手当
- 福利厚生費(ユニフォーム・慶弔金・予防接種など)
人件費に含める範囲は、税務・会計・経営分析など集計の目的や基準によってクリニックごとに若干異なることがあります。(外注スタッフや派遣職員の費用も実質的に労働力コストとみなして参考に含めるような場合です。)
※この記事では、「クリニック経営の判断材料」として広く用いられる範囲を想定しており、労働力にかかる直接的・間接的な費用を含めた実務的な定義を採用しています。
1-2. 経営分析における人件費率の役割と位置づけ
人件費率は、単にコスト削減のために監視する数値ではなく、「人材への投資」と「経営の持続性」とのバランスを見極める指標として活用されるべきものです。
人件費率が高すぎる場合のリスク
- 経営にゆとりがなくなる
- 設備投資や広告予算を削らざるを得ない
- 利益が確保できず報酬が減る(院長自身に跳ね返る)
人件費が低すぎるリスク
- スタッフが疲弊して離職率が上がる
- 医療の質が低下し患者満足度に悪影響
- 採用が難しくなり、求人費がかさむ
このように人件費率は、ただ数字を低く抑えればよいというものではありません。
無理に人件費を削ると、スタッフの退職や採用難につながり、結果として人員不足や業務停滞、患者満足度の低下を招いてしまう可能性があります。
そのため、人件費率は単なる“コストの比率”ではなく、
- スタッフ体制に無理がないか
- 医療の質が維持できているか
- 今の診療スタイルが経営的に持続可能か
といった経営全体を俯瞰するためのチェック項目のひとつとして活用すべきです。
見かけの数値にとらわれるのではなく、“なぜこの水準なのか”を掘り下げて分析することが、戦略的な人材マネジメントと経営改善の第一歩になります。
2. 人件費率の相場|診療科別・規模別の目安
2-1. クリニックにおける一般的な人件費の目安とは
クリニックにおける人件費率は、個人クリニック25-30%・医療法人40-50%程度が適正範囲とされることが多いです。
人件費率が高い場合、必ずしも悪いとは限りませんが、「高い理由」が説明できないと経営上の不安材料となります。
なお、都市部と地方では時給相場や募集競争も異なり、同じ業務内容でも人件費が1.5倍近く差が出るケースもあります。
このように、「どの水準が正しいか」は一律に判断できず、自院の診療モデルと地域環境に応じて“妥当なライン”を見極めることが大切です。
2-2. 診療科別の傾向(内科/整形外科/皮膚科/美容皮膚科など)
診療科ごとに、診療単価や必要なスタッフ数、診療時間の長さが異なるため、人件費率にもそれぞれ特徴があります。
以下は代表的な傾向です。
内科・小児科など(保険診療中心)
診療単価が低く、1日あたりの患者数が多いため、スタッフ数も多くなりがちです。
受付・医療事務・看護師の配置が基本となるため、人件費率は40〜50%前後で推移することが一般的です。
整形外科・耳鼻科など
物理療法スタッフや検査技師など補助職員の配置が必要となることが多く、人件費率は45〜55%程度とやや高めになります。
皮膚科(保険中心)
看護師1〜2名での運営が可能なケースが多く、医療機器もシンプルな構成で済むため、人件費率は30%台に収まることが多いです。
美容皮膚科・自由診療系
診療単価が高く、スタッフ構成は必要最小限に抑えられることが多いため、人件費率が20〜30%台前半に収まるケースもあります。
このように、診療科によって経営モデルが大きく異なるため、他の診療科と単純比較して“高い/低い”と評価するのは適切ではありません。
まずは自院の診療科特性と収益構造を踏まえたうえで、人件費率を判断することが重要です。
2-3. 規模別(単科・複数医師・分院あり)による人件費構成の違い
クリニックの規模や運営形態によっても、人件費の構成や管理のしやすさは大きく異なります。
院長ひとり+数名スタッフの単科クリニック(いわゆる町の診療所)
スタッフ全員が診療補助や受付業務などに直接関わっており、「人件費=現場稼働費」として明確に見える構造です。
比較的管理しやすく、人件費率もコントロールしやすい傾向にあります。
複数医師体制のクリニック
医師が複数在籍する体制では、診療の幅が広がる一方で、医療事務・看護師・スタッフなどの職種も増えます。これに伴って、人件費の内訳や稼働負担の分散も見えにくくなり、適切な業務分担や人件費配分の設計がより重要になります。
分院を複数持つ医療法人
現場スタッフだけでなく、本部事務・人事・広報などの「間接部門」の人件費も増え、全体の人件費率が見えにくくなる傾向があります。
個別院ごとの採算性や人件費の妥当性を把握するためには、部門別損益の導入や定期的な人員再配置の見直しが重要です。
このように、規模が大きくなればなるほど人件費の総額だけでなく、「誰に・何の目的でかかっているか」を細かく可視化する必要があります。
クリニックの成長フェーズに応じた人件費の見方に切り替えていくことが、経営の成熟度を高めるポイントになります。
3. 人件費率が高くなる原因とは?
3-1. スタッフの採用難による“高止まり”
近年、医療業界における人材採用はますます厳しくなっており、 「応募が来ない」「来ても条件が合わない」といった状況が常態化しています。 その結果、給与や福利厚生を上乗せしてやっと採用できた人材に対し、そのままの条件で固定化されてしまうというケースが少なくありません。
こうした“採用時の一時的な高待遇”がその後も継続されることで、人件費が下げられない構造が生まれます。
また、離職された場合には再び高条件での採用が必要となり、人件費が右肩上がりに“高止まり”していく負の連鎖につながります。
3-2. 退職リスクを避けるための給与競争の弊害
既存のスタッフが退職してしまうと、診療体制や患者対応に支障が出るため、院長先生としては「とにかく辞めないでほしい」という心理が働きます。 そのため、「〇〇医院ではもっともらっているらしい」「求人サイトではもっと条件がいい」といった話に過敏に反応し、競争的に給与を引き上げる判断をしてしまうことがあります。
もちろん、待遇改善は大切ですが、明確な評価制度や昇給基準がないまま個別に条件を上げ続けると、
院内での不公平感が広がり、かえって職場の不満や分断を招く結果にもつながりかねません。
結果的に、人件費は上がったのに定着率は改善されないという、本末転倒な状況に陥るリスクがあります。
3-3. 労働時間・役割分担・残業構造の設計ミス
人件費が過剰になる要因の一つに、「働き方の非効率さ」が挙げられます。 たとえば、以下のようなケースは要注意です。
- 一部のスタッフだけに業務が集中し、残業が常態化している
- 医療事務や受付スタッフが看護補助業務まで兼任しているが、その分の負担が手当で上乗せされている
- 役割の区切りが曖昧で、本来不要な時間外業務が日常化している
こうした運営体制は、労務リスク(未払残業代請求、労基署対応)にもつながるうえ、本来の生産性を大きく下げる要因になります。
特に中規模以上のクリニックでは、「誰が・何を・どの時間帯に担当するか」という役割設計・シフト設計の精度が人件費に直結するため、
単に人数を増減するだけでなく、業務フローや配置バランスの見直しが必要となります。
4. 人件費を単に“削る”ことで起きる弊害
4-1. 人材流出・採用コスト増加という逆効果
人件費が高いと感じたとき、まず「削れないか」と考えるのは自然な発想ですが、 給与や手当を一方的に引き下げるような対応は、逆効果になることも多いのが実情です。
加えて、給与は労働契約の根幹に関わる要素であるため、原則として労働者本人の同意がない限り、一方的に減額することは法的にも認められていません。
従業員は収入の増減に非常に敏感であり、突然の待遇変更は「この職場は安定しない」という不信感につながります。
それが離職を引き起こし、結果としてまた求人広告・紹介料・育成コストが発生する——つまり、「短期的な削減」が「中長期的なコスト増」に転化するという悪循環です。
4-2. 対応品質の低下による患者離れ
スタッフの数を最小限にして一見効率的に見える運営も、 現場に過度な負担がかかることで、患者対応や安全管理に影響が出てしまうリスクがあります。
スタッフが疲弊し、受付対応や待ち時間への配慮、診療補助の対応などに余裕がなくなってしまうと、最悪の場合クレーム等にもつながりかねません。
さらに、これが口コミサイトでの評価低下という見える形で外部に広がってしまうと、新患の流入にも悪影響を及ぼすこともあります。
5. 人件費率を最適化するための具体的アプローチ
5-1. 業務の見える化と「適正配置」の再設計
まず行うべきは、誰がどの業務を、どれくらいの時間で担っているかを可視化することです。 いわゆる「業務棚卸し」です。
- 医療事務が診療補助業務に取られすぎていないか
- 院長が本来委任できる業務に時間を割いていないか
- 看護師・スタッフの業務分担は適切か
こうした点を洗い出し、業務内容・人員配置・役割分担の見直しを行うことで、無駄な重複やボトルネックを排除し、人数を減らさなくても人件費率を改善する余地が生まれます。
5-2. 評価制度・職能給・インセンティブの再構築
人件費を「削減する」のではなく、「生産性に応じて最適に分配する」ことが、人材定着と人件費適正化の両立に繋がります。 そのためには、誰がどのように評価され、どのような賃金体系で処遇されているかを明確にする制度が必要です。
- 一律昇給ではなく、職能や役割に応じた手当設計
- 受付対応やレセプト処理など「見えにくい貢献」を定量化する工夫
- 業務改善提案や患者満足度向上などに連動したインセンティブ
こうした仕組みがあることで、給与支出の“納得度”が上がり、コストコントロールもしやすくなります。
5-3. 外注化・システム導入・パート活用の戦略的組み合わせ
人件費率を見直す際、今の人を減らす以外にも選択肢はあります。たとえば、以下のようにシステムや外注、勤務形態などをうまく活用することで、人件費の効率を高めることが可能です。
- レセプト業務や労務管理の外注化により、固定人件費を変動費化する
- 予約管理や問診の電子化ツールにより、スタッフの作業時間を削減
- ピーク時間帯だけパートスタッフを配置することで、人員数を柔軟に調整
単に人件費の総額を下げるのではなく、スタッフ一人ひとりが担う業務の効率や生産性を高める工夫をすることで、同じ人数でもより高い成果を出せる体制に見直していくことが、持続可能な経営改善につながります。
6. 法的観点から見た人件費マネジメントの重要ポイント
6-1. 労働契約・雇用形態の整理(正社員・パート・業務委託)
人件費の最適化を図るうえで、各スタッフの雇用形態が法的に適正であるかを確認することは基本中の基本です。
特に注意すべきポイントは以下のとおりです。
雇用形態の注意点
- 実態は業務委託なのに、指揮命令・勤務時間の拘束が強く、実質的に雇用とみなされるケース
- パート職員を正社員と同様に扱っているが、契約書や労働条件通知書が整っていない
- 社会保険加入義務を満たす勤務時間であるのに、未加入のままにしている
こうした法令違反は、未払い残業代・労働保険の追徴・労働基準監督署からの是正指導につながる可能性がありますので、万が一適切な運用ができていない場合は速やかに改善を行う必要があります。
6-2. 残業代・変形労働時間制・36協定の適正運用
人件費をコントロールするうえで「残業代管理」は避けて通れません。 とはいえ、時間外労働の上限や割増賃金の支払いルールは法的に厳格に定められており、 違反すると重大な労務リスクに発展します。
- 変形労働時間制やシフト制を導入している場合は、その根拠を就業規則や労使協定(36協定)で明確化しておく必要があります。
- 残業の申告がなかったことを理由に“払わない”のは基本的にNGです(未申告残業にも支払い義務があるため)。
- 管理職とされている人が、実は法的には「管理監督者」に該当せず残業代が必要というケースもあります。
こちらも適切な運用ができていない場合は未払い残業代請求や労基署からの是正指導のリスクがありますので、速やかな改善が必要となります。
6-3. 賃金の引下げや制度変更における合意形成とトラブル予防
人件費を調整する過程で、既存の賃金体系や勤務条件を変更せざるを得ない場面も出てきます。 しかしこの際、法的に重要なのが労働条件の不利益変更とみなされないよう、合意形成を適切に行うことです。
不利益変更とならないためのポイント
- 一方的な通達による給与カットや手当廃止は、原則として違法です。
- 正当な理由がある場合でも、就業規則の整備や個別の同意取得を経たうえで変更する必要があります。
- 納得性のない制度変更は、職場の信頼関係を損ない、離職や訴訟リスクにつながる可能性があります。
賃金制度の見直しは、経営側だけの判断で進めず、法的要件を満たした慎重な設計と説明が求められます。
7. 「人が辞めない職場づくり」と「コスト最適化」を両立させるには
7-1. エンゲージメントを高める人事制度の設計とは?
人件費率の最適化を実現するには、単にコストを抑えるのではなく、スタッフが意欲的に働き続けられる環境を整えることが不可欠です。 その鍵を握るのが「エンゲージメント(組織への貢献意識)」の向上です。
具体的には、以下のような制度設計が効果的です。
- 明確な評価基準に基づく昇給制度
- 業務の成果や取り組み姿勢を見える化し、評価に反映
- 「頑張っても報われない」という不満を防ぐ透明な処遇ルール
- 院長との定期的な面談によるキャリアの方向性共有
こうした仕組みがあれば、スタッフは「この職場で頑張る意味がある」と感じやすくなり、離職防止・定着向上が図れると同時に、人件費のバラつきも抑制できます。
7-2. 評価制度を適切に稼働させる仕組みづくり
多くのクリニックでは、就業規則自体は整備されていても、評価制度や賃金規程が十分に設計されていないケースが少なくありません。
また、評価制度があっても、業務評価と処遇(昇給・賞与・手当など)の連動性が不十分で、スタッフが「評価されても給与に反映されない」と感じているような状態も見受けられます。
これを防ぐには、以下のような運用の見直しが有効です。
制度の形骸化を防ぐポイント
- 評価制度の位置付けや実際の運用方法を従業員に説明する機会を設ける
- 賃金規程に昇給・賞与・手当のルールを具体的に記載
- 年一の評価だけでなく、四半期、月単位でのフィードバックを実施する
- 社内の実情と評価制度があまりにも乖離している場合は制度自体の見直しを行う
評価制度を適切に運用することで、従業員自身が評価に対する納得感を高められるのと同時に人件費の配分が計画的かつ合理的に進められるようになります
8. 当事務所のサポート体制(弁護士・社労士が連携支援)
人件費に関わる施策には、労働契約・雇用形態・制度変更・紛争対応など、法的なリスクが常に隣り合わせです。
当事務所では、弁護士法人と社会保険労務士法人が一体となり、クリニックの人件費課題を「法務×労務」の視点から多角的にサポートしています。
社労士資格を持つ弁護士を中心に、人事制度の設計や賃金規程の見直し、各種規則整備から職員への説明・万が一の紛争対応まで一貫してご対応しております。
「何となく人件費が高い気がする」「辞められるのが怖くて条件を上げ続けてしまっている」「制度があるのに運用できていない」というようなお悩みがありましたら、まずは一度ご相談ください。