社会保険(健康保険・厚生年金保険)は法律で定められた強制加入制度であり、要件を満たす従業員を加入させないまま雇用していると、遡って保険料を徴収されるだけでなく、罰則や監督指導の対象となるリスクもあります。本記事では、クリニックが従業員を雇う際の社会保険の取り扱いを、雇用形態ごとに整理し、加入要件や加入漏れによるリスクまで詳しく解説します。
1. 社会保険の全体像とクリニックにおける考え方
1-1 社会保険の範囲:健康保険・厚生年金・雇用保険・労災保険
まず、社会保険とは何を指すのかという点について、医療機関が従業員を雇う場合に関係する保険制度は、大きく次の4種類に分かれます。
| 区分 | 管轄 | 対象となる主な従業員 | 費用負担 |
|---|---|---|---|
| 健康保険 | 日本年金機構(協会けんぽ)または健康保険組合 | 常勤・パート含め一定の基準を満たす者 | 事業主と従業員が折半 |
| 厚生年金保険 | 日本年金機構 | 健康保険の加入者と同一 | 事業主と従業員が折半 |
| 雇用保険 | 公共職業安定所(ハローワーク) | 原則として週20時間以上働き、かつ31日以上の雇用見込みがある者 | 事業主と従業員が折半 |
| 労災保険 | 労働基準監督署 | 全ての労働者(勤務時間に関係なく) | 事業主が全額負担 |
このうち「健康保険」「厚生年金保険」は社会保険と呼ばれ、法人事業所では原則として強制適用です。「雇用保険」は一定の条件を満たした労働者、「労災保険」は労働者全員を対象とする労働保険であり、社会保険と合わせて管理するのが一般的です。
1-2 適用事業所の基本:法人は原則強制適用/個人開業の適用区分
社会保険の加入義務は、「事業所単位」で判定されます。
このため、同じ医療分野でも「医療法人」と「個人開業医」とでは扱いが異なります。
医療法人の場合
健康保険法第3条に基づき、法人格を有する事業所は強制適用事業所に該当します。
法人が雇用する常勤スタッフ(常用的労働者)は、原則として全員を健康保険・厚生年金保険に加入させる必要があります。
「小規模だから」「本人が希望しないから」という理由では加入免除はできません。
個人開業医の場合
原則として、常時5人以上の従業員を雇用する診療所は強制適用事業所となります。
一方、従業員が常時4人以下の小規模な診療所(例:医師と家族のみ、あるいは受付1名・看護師1名程度など)は、法律上の加入義務はなく、「任意適用事業所」となります。
- 任意適用を希望する場合は、従業員の2分の1以上の同意を得て、年金事務所へ申請する必要があります。
つまり、医療法人は原則強制加入、個人開業は条件付きというのが基本的な位置づけです。
2. 加入義務の基本要件を正しく理解する
2-1 常用的労働者の考え方(所定労働時間・所定労働日数)
社会保険の加入義務が発生するかどうかは、「常用的な使用関係」があるかどうかで判断されます。これは勤務時間や日数の多寡ではなく、雇用契約の安定性・継続性が重視されるという点がポイントです。
具体的には、次のいずれも満たす労働者は常用的労働者とみなされます。
- 雇用期間が2か月を超える見込みがある(または更新前提で雇用されている)
- 所定労働時間が同一事業所の正社員の4分の3以上
- 所定労働日数が同一事業所の正社員の4分の3以上
たとえば、正社員の勤務が「1日8時間・週5日」であれば、週30時間以上、週4日以上勤務している職員は原則加入対象となります。
これを「4分の3ルール」と呼びますが、実際には勤務時間だけでなく、「雇用契約書に更新条項がある」「固定シフトで勤務している」などの実態判断が重視されます。
一時的・臨時的なアルバイトであっても、実態が常勤に近ければ加入対象と判断されることがあるため、契約書・勤怠管理を常に実態に即して更新しておくことが重要です。
2-2 学生・ダブルワーク・65歳以上・再雇用の取り扱い
社会保険の適用範囲は、年齢や学籍の有無によっても異なります。
以下のようなケースでは、誤った判断をしやすいため注意が必要です。
学生アルバイト
学生であっても、卒業見込みで雇用期間が延びる場合や、夜間・通信制など「主たる生業が労働」と認められるケースでは加入対象になります。
一般的な昼間学生は除外されますが、週20時間超勤務が長期化している場合は個別判断となります。
ダブルワーク(兼業)
複数の事業所で働く場合、主たる勤務先が社会保険に加入していれば、副業先では加入不要です。ただし、両方の勤務が4分の3基準を満たす場合、「二以上事業所勤務」として合算加入する制度もあります。
65歳以上・再雇用
65歳以降も厚生年金・健康保険の加入対象となります(2022年法改正により70歳未満は原則加入)。ただし、70歳以降は厚生年金の資格喪失となり、健康保険のみ加入となります。
3. 短時間労働者(パート・アルバイト)の適用拡大ルール
3-1 週所定20時間・賃金水準・雇用見込みなどの基準整理
社会保険の対象は、かつて正社員の4分の3以上だけでしたが、法改正により、一定の条件を満たす短時間労働者(パート・アルバイト)にも適用が拡大されています。
以下のすべてに該当する場合、パート・アルバイトでも社会保険の加入が義務付けられます。
1. 週の所定労働時間が20時間以上
2. 雇用期間が2か月を超える見込み
3. 月額賃金が88,000円以上(年収換算約106万円以上)
4. 学生ではない
5. 従業員規模が51人以上の事業所
これにより、以前は従業員数が少ないクリニック(医療法人・個人事業主を問わず)は制度の対象外でしたが、今後は、常時51人を超える医療機関・医療法人グループ・分院展開クリニックなども適用対象となります。
つまり、規模の大小にかかわらず、一定規模を超える医療機関では短時間勤務者も社会保険加入が原則化される流れにあるのです。
3-2 従業員規模要件(常時雇用者数)とクリニックの実務
適用拡大の対象となる従業員数は、法人番号が同一の全事業所の従業員数を合計して判断します。そのため、法人番号が同一であれば本院・分院・関連施設を一体として合算して判断します。
たとえば、医療法人Aが「本院+健診クリニック+訪問診療部門」を運営している場合、全体で51人を超えれば、全ての事業所が適用拡大の対象になります。
このため、
- パートスタッフが多い医療法人
- 本部・グループ・介護事業部を併設している法人
などでは、知らないうちに「特定適用事業所」として扱われるケースが少なくありません。
実務では、年金事務所から社会保険適用拡大の案内が届いた段階で初めて気付くことも多く、遡及加入や追加納付に発展するリスクもあるため、法人全体で従業員数や勤務状況を定期的に集計し、本部で一元的に確認できる体制を構築しておくと安心です。
4. 採用・異動・働き方変更時に必須の手続き
4-1 資格取得・喪失/月額変更・算定基礎・賞与届の実務
社会保険は入社時に加入手続をしたらそれで終わりではなく、退職・昇給・異動などのたびに届出が必要です。
日常的に発生する主な届出は次のとおりです。
| 手続名称 | 提出期限 | 提出先 | 概要 |
|---|---|---|---|
| 資格取得届 | 入職日から5日以内 | 年金事務所 | 新規加入時に提出。入職日を基準にする。 |
| 資格喪失届 | 退職日の翌日から5日以内 | 年金事務所 | 退職・死亡・適用除外など。 |
| 月額変更届 | 昇給・降給・勤務形態変更など月額報酬が変わったとき | 年金事務所 | 3か月間の平均報酬が2等級以上変動した場合に提出。 |
| 算定基礎届 | 毎年7月10日頃 | 年金事務所 | 4〜6月の平均報酬で標準報酬月額を決定。 |
| 賞与支払届 | 賞与支給から5日以内 | 年金事務所 | 賞与支給額を報告。社会保険料算出の基礎となる。 |
これらを適正に処理しないと、標準報酬月額の誤り→保険料過不足→将来の年金・給付額の誤差に繋がります。自社内での対応が難しそうな場合は、外部の社労士に委託して正確な手続フローを取っておくのが安心です。
4-2 勤務時間や勤務形態に変更があった場合の手続の手順
勤務時間や働き方の変更がある場合も、社会保険の適用判定が変わることがあります。たとえば、以下のようなケースではいずれも「報酬」「勤務時間」「雇用実態」の変化を伴うため、変更後の勤務条件に基づいて再度加入・喪失の判定を行う必要があります。
- 正社員から週4日勤務のパート勤務へ変更した
- 看護師が他院でも勤務を開始し、週20時間未満に減った
- 産休・育休後に時短勤務へ移行した
- ダブルワーク(別の病院勤務)を始めた
多くの医療機関で見落とされがちなのが、特定適用事業所において「週20時間未満になったのに脱退届を出していない」または「20時間を超えたのに加入させていない」というケースです。
いずれも、遡及調整・未納保険料徴収・是正指導のリスクがあるため異動や勤務条件変更時には必ず社労士や事務担当者による確認を行ってください。
4-3 産休・育休・介護休業と保険料免除・標準報酬の扱い
出産・育児・介護を理由に休職する間の社会保険については、次のような免除・給付制度が用意されています。
産前産後休業期間中の保険料免除
事業主・従業員ともに健康保険・厚生年金保険料が免除。
免除期間も被保険者期間に算入されるため、将来の年金額にも反映されます。
育児休業中の保険料免除
原則として子が3歳になるまで。事業主負担・本人負担とも免除。
出産手当金・育児休業給付金の受給
出産手当金は、産前産後休業中に給与の支払いがない場合に、健康保険から支給される給付金です。育児休業給付金は、雇用保険に加入している従業員が育児休業を取得した際に支給されるもので、休業開始から6か月までは賃金の67%、それ以降は50%が支給されます。
なお、休業中の職員が復帰した際に、勤務時間や報酬が変動する場合は、状況に応じて月額変更届の提出が必要となることもあります。
5. 社会保険加入なしの状態で発生しうるリスクとは
5-1 遡及適用・追徴保険料・加算金等の金銭的リスク
社会保険を適用すべき従業員を加入させずにいた場合、年金事務所の調査により「遡及適用」が行われることがあります。
この場合、以下の負担が発生します。
- 過去2年分の保険料を事業主と従業員の双方で納付(事業主が立替後に控除)
- 延滞金(最大14.6%)および加算金の発生
調査が入ると、過去の給与台帳・勤怠記録・源泉徴収簿がすべて確認され、加入漏れが発覚すれば即時加入・遡及納付を求められます。
また、従業員に対しても、過去に遡った金額での社会保険料を一括で徴収しなければならないため、本人の金銭的負担や従業員への説明責任という点についても問題となる可能性があります。
5-2 産休・育休給付金が支給されないリスク
社会保険に未加入のまま従業員を雇用していると、出産や育児休業の際に支給される各種公的給付(出産手当金・育児休業給付金)を受け取ることができません。 これらの給付は健康保険・雇用保険への加入が前提のため、未加入状態では申請そのものができないのです。
これらが支給されない場合、出産や育児で長期休業した従業員は無収入状態となり、本人にとっての経済的打撃はもちろん、職場への不信感・離職リスクを高める結果となります。
また、「加入してもらっていなかった」「説明を受けていなかった」という理由から、使用者責任を問われるトラブルに発展するケースもあります。
医療機関では女性職員の割合も高く、採用や定着におけるイメージにも直結するため、産休・育休給付の支給体制を整えることは、法令遵守だけでなく職場環境整備の観点でも不可欠です。
6. クリニックの社会保険について関連する質問Q&A
Q. 試用期間中は社会保険には加入しなくてよいのでしょうか?
A. いいえ。試用期間中であっても、勤務時間や勤務日数が社会保険の加入要件を満たしていれば、原則として初日から社会保険に加入させる必要があります。
「本採用になってから加入する」「一定期間働いてから加入を判断する」といった運用は、法令上は認められていません。試用期間もあくまで雇用契約の一形態であり、実際に働いて報酬を受けている以上、加入義務が生じます。
なお、試用期間中に早期退職となった場合は、保険料は在籍していた期間分だけ発生します。
Q. 非常勤医師を業務委託にしていれば社会保険の加入は不要でしょうか?
A. 非常勤医師を業務委託契約で雇うケースも多いですが、勤務実態が雇用に近い場合、社会保険の加入対象と判断される可能性が高いです。
例えば、勤務時間や勤務場所を指定し、クリニックの指揮命令下で働いているような場合は、契約形態が業務委託であっても雇用であるとみなされ、過去にさかのぼって社会保険加入義務が発生し、保険料の追徴・遡及が求められることになります。
業務委託を利用する場合は、独立性・成果報酬性・自己裁量を契約書に明示しておくことが不可欠です。
当事務所では、弁護士法人だけでなく社労士法人もグループ内に併設しておりますので、実際の社会保険手続の代行含めて一括でサポートが可能です。
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