これから法曹を目指される方に向けて、元検事・憲法の司法試験考査委員も務めた弁護士が考える司法試験というテーマのコラムとして、今回は司法試験の刑法で問われているものが何かということについて、実務家の視点から弊所所属川本日子弁護士がお話していきます。
前回の記事はこちらから:元検事・元司法試験考査委員(憲法)が考える司法試験―司法試験全般で問われているものは何か?
1.司法試験(刑法)で問われているものは?
まず結論ですけれども、司法試験の刑法で問われているものというのは、罪刑法定主義とは何か、ということに尽きると思います。
一方で、処罰の要請があって、検察官は、新しい犯罪が出てきても、これは既存の刑法で処罰できるんだと言って起訴するわけですが、他方で、弁護人は、いやいや人権保護の観点からこれは罪刑法定主義が予定してないものなんだといって争う。
じゃあ、そこの調整をどうはかるかというものが、実務でいつもいつも争われるということになってきます。
そのときに刑法の条文、刑法の判例が非常に重要になってきます。
2.刑法の条文、刑法の判例について
ここで、簡単に条文と判例についてご説明をしておこうと思います。
刑法=犯罪と刑罰を規定している(犯罪の構成要件は重要だが、実務上、刑罰の違いは極めて重要
判例=刑法条文を補完している
刑法というのは、御存じのとおり、犯罪と刑罰を規定しているわけなのですが、実務上、刑罰の違いというのが極めて重要になってきます。(あまり刑罰というものを見たことが無いかもしれませんが。)
例えば、殺人未遂罪なのか、傷害罪なのかというのは、全然法定刑が違うわけです。
そうなってきた場合に刑罰がどうなるかが熾烈に争われるんですけれども、だからこそ犯罪の構成要件って何でしたっけということがとても重要になってくるわけなのです。
ただ、刑法という法律自体の条文規定が一義的じゃない場合があるので、判例がその条文を補完しているという関係にあります。
3.判例における問題の所在とは?
さて、条文を補完する関係にある判例ですが、いくつか問題もあります。
それは、条文を見ても一義的には構成要件がわからないという問題、あるいは条文を見たときに一見構成要件に該当しそうだけれども何でも該当すると処罰範囲が広すぎるという場合や、逆に処罰範囲が狭すぎるという場合があると思います。
その場合、判例がどう判断しているのかというのが非常に重要になります。
わかりやすく、少し具体例を交えてお話をさせていただきます。
例1:不作為犯
不作為犯というのは皆さん刑法を学んでかなり早い段階で勉強されると思うので、殺人の不作為犯が問題となるっていうように問題提起されることが非常にあると思います。
私が採点する人であれば、もちろん殺人の不作為犯の問題となると答案に書かれたらマルにするのですが、ここで考えていただきたいのは殺人の不作為犯というものって刑法に書いていましたっけ?というのをちょっと立ち止まって考えていただきたいと思うのです。
というのも、そういう知識を聞きたいということではなくて、実際の実務であれば、作為があろうが不作為だろうが人を殺したと評価できれば本来殺人罪を適用していいんじゃないですかと、検察官だったらそう言うでしょう。
ただ、不作為の場合であれば、ただ通りすがりだった場合とか、いろいろな人が要件に該当してしまうから、それで際限なく処罰できてしまうんじゃないかということが問題となるということです。
じゃあどう考えるか?というところなんですが、括弧の中に書いているように、条文上は殺した方法には限定がないので、作為だろうが不作為だろうが含まれるでしょうっていうのがまず初めの考え方で、他方の考え方として、いやいや不作為の場合は処罰範囲が広がり過ぎますよねということで、そもそも殺したと言える場合というのはどういうことだったかなというような考え方の手順を踏んでいくことになるのだと思います。
あくまで実務家として聞きたいことは、不作為犯という知識を知っているよということではなくて、殺したっていうところをどう考えるかっていうことなので、そのような考え方を理解していただきたいです。
例2:わいせつ目的
もう一つ別の例を挙げます。わいせつ目的です。
この問題については既に判例が出たので、もう必要が無い問題かもしれませんが、一番下のところを先に見ていただくと、最高裁の平成29年11月29日の判決が、その上に書いてある最高裁の昭和45年1月29日判決を修正したということになります。
この判決は、強制わいせつ罪の目的にはわいせつ目的はいらないんだというように一応理解されている判決ですが、これって当たり前だったんじゃないのっていうのを皆さんに一回考えていただきたいと思うんですよね。
この事案はお父さんが実の娘に対して行為を行った犯罪だったと記憶しておりますが、まず客観的にわいせつな行為をしたということ自体に争いはなく、そして客観的にわいせつな行為をしたと言われるようなことをやったことの認識、認容行為はあるという事案で、だけど父親が娘に対する感情だから、わいせつ目的はなかったんだということで争われたんですけれども、そもそもわいせつ目的って刑法の条文に書いていないのに本当に必要なんですか、条文に書かれざる主観的要件が必要なのかが問題となる事案だったと言えるのではないかと。
元々一般的に言われている目的犯があるので、お分かりかと思いますが、「○○の目的で」というように条文で規定してあれば当然目的犯なのですが、強制わいせつ罪にはそのような規定はありません。
となると、規定がそもそもされていなかったのに、なぜ昭和45年の判例はわいせつ目的がいるっていうような判断をしたのか、それ自体間違ってたんじゃないんですかという、そこが問題の所在だと思います。
3.まとめ
今回、例として2つ挙げましたが、いずれについても罪刑法定主義をどう考えるか、掘り下げて考えているか、分かっているのか、というところを司法試験では聞いてるのではないかなと思っています。
そういうことを考えていただいた方に是非とも試験に受かっていただきたいなって思っているところでございます。
では、皆さんの御検討を祈ります。
記載内容は投稿日時点のものとなり、法改正等で内容に変更が生じる場合がございますので予めご了承ください。